肥前陶磁器の誕生秘話

平戸洸祥団右ヱ門窯 第十七代中里一郎氏に聞く三川内焼
長崎県佐世保市三川内町
撮影日 2026年5月1日

なぜ原料がない三川内で焼物が焼かれたのでしょうか?

職人は朝鮮から連れて来られた陶工がルーツだそうです。原料は、早岐茶市で売られていた天草産の砥石が磁器の原料だと見出されて、三川内で磁器が焼かれるようになったそうです。

有田焼は明治期に明治新政府が盛んに欧米に向けて販売戦略を展開したために知名度が上がりました。その後有田商人は全国へ見本を持って行商へ赴き、有田焼の認知度がさらに高まりました。

波佐見焼は波佐見町には窯業技術センターがあるので、官民一体となって波佐見焼ブランドの確立に動いてきました。少し前までは有田焼のシールを貼られて全国に出荷されていた波佐見焼ですが、今では波佐見焼として独立した産地、ブランドが確立されつつあり、有田焼ではなく波佐見焼を買いに波佐見陶器市に来る焼き物ファンも増えました。

三川内焼は、かつては伝習館がありましたが、県の窯業技術センターは波佐見に作られてしまいました。波佐見焼の場合、長崎県と波佐見町が協力して産業育成に当たってきましたが、三川内焼の場合には、長崎県と三川内町の間に佐世保市が介在してしまうので、官民一体で産業育成をするのに波佐見町のようには臨機応変に動けなかった経緯があるそうです。また人材育成機関は、有田町の窯業大学に依存しており、三川内焼が遅れをとってしまった原因はそのような背景があるそうです。