唐船城

大正14年(1925)椎谷孟保著『唐船山 三星鑑』に描かれた唐船城跡

唐船城(とうせんじょう)と有田氏

唐船城は、平安末期頃から有田郷を治めた有田氏によって築かれました。築城年代は諸説あるものの、通説では建保6年(1218)とされます。当初の居館は唐船山の南側にあり、唐船山の三方を囲う有田川を堀、背後の丘陵を城壁の代わりとして、守りを固めていたと推測されます。
しかし、14世紀後半の南北朝時代、子孫が途絶えたためか、本拠地を今福(松浦市)から相神浦(佐世保市)に移していた。松浦宗家が有田領主も兼務したため、「有田」の名字は一時途絶えました。しかし、島原半島を拠点に勢力を誇った有馬氏から養子を迎え、永禄10年(1567)有田氏の治世が復活しました。戦国時代には、城の機能は唐船山の北麓へと移っていたと推測されますが、天正5年(1577)には龍造寺(りゅうぞうじ)氏の軍門に下り、その一族が有田氏を継承しました。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の命で有田郷は武雄の後藤家信に与えられましたが、家臣の領地の3割を返上させた三部上地(1611・1621)の際に佐賀本藩の直轄領となっています。
有田郷には代官が置かれ、有田氏は神埼郡内に知行替(ちぎょうがえ)となり佐賀城下に移り住みました。

松浦党(まつらとう)と有田氏

松浦氏は、第52代嵯峨天皇の流れをくむ嵯峨源氏の末裔で、男子の多くは一文字名を名乗りました。その中でも、『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとなった 源 融(みなもとのとおる)を始祖とする渡辺氏の家系に連なります。その祖渡辺綱は、清和源氏3代目の源頼光に仕える四天王の筆頭として、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治の逸話などでも知られます。その綱の曽孫である源久は、延久元年(1069)に摂津渡辺荘(せつつわたなべのしょう)(大阪市)から今福(松浦市)に荘園管理の御厨検校として下向し、梶谷城(松浦市)を拠点に松浦地方の各地に勢力を拡大しました。有田氏は、久の孫、四郎栄が有田郷を与えられ、地名の有田を名乗ったことにはじまります。松浦氏の一族は48党53家と称されるほど多くに分派し、固い結束力からその連合体は党になぞらえられました。水軍を組織し海賊として恐れられるほどの強い勢力を誇るとともに、中国や朝鮮との直接交易も行っています。しかし、群雄割拠の戦国時代には一族間の結束が大きく乱れ、争いも絶えなくなりました。勢力を維持したまま戦国期を生き残れたのは平戸松浦家のみで、江戸時代には大名として平戸藩を構えています。

有田氏再興と松浦宗家の奪還

有田氏断絶後7代もの領主が有田郷を兼領した松浦宗家では、各地で騒動が絶えない中、永
禄2年(1559)有馬氏を頼り、晴純の四男盛を丹後守親の後継ぎとして飯藤城(佐世保市)に迎えました。しかし、同6年(1563)8月の松浦隆信は、有馬氏が救援を送れない状況を察知して、飯盛城へと攻め込んだのです。この戦いは3年ほども続き、劣勢に立った親は盛を有馬に帰して同9年(1566)に降伏。隆信の三男九郎を後継とし、親の名も継がせ、自らは隠居し宗金と名乗りました。宗金は幼少期には幸松丸と称し、幽閉された平戸から唐船城の家たちが奪還、元服までの間唐船域で育てられました。そして、新たに楽いた飯盛域に、宗家の新当主として送り出しています。この宗家の窮状に際して、幸松丸を後見した城代の池田武蔵ら唐船城を守る家臣たちは、盛を城主に迎え有田氏を再興した上で、平戸に臣従した宗家奪還の機会をうかがいました。そして、元亀3年(1572)、意を決して平戸軍と相当原(佐世保市)で戦うものの奮闘むなしく敗れました。その後、天正5年(1577)には勢力を拡大した龍造寺氏に降伏、須古(自石町)城主龍造寺信周の次男信明に有田氏を続がせたことで能造寺の家系となり、宗家奪還の悲願はかなうことなくついえたのです。

唐船城(とうせんじょう)の所在地は、佐賀県西松浦郡有田町山谷牧(やまやぼく)です。山谷駅(松浦鉄道)から徒歩圏内で、唐船城公園や山田神社(唐船城跡)として整備されており、当時の竪堀や狼煙台跡が残っています。