西登窯跡
三川内面窯跡
18世紀前半から始まる登り窯であり、開窯は昭和16年である。都合二四0年間、同じ場所で焼物を焼き続けていた。伝統的に炊き口は左側にあって、焼きない品などを捨てた物原(ものはら)は厚さ五れ以上にもなると見込まれる。
昭和16年に終った窯は全長約100mで、20前後の焼成室を有していたと見られ、その規模は19世紀も同じであったことが発掘で判っている。
18世紀前半の焼物は陶器の刷毛目碗のほか、染付けの草花文碗などがあり、後半には陶胎染付碗や卸判手の碗が多くなり、一貫して低価な焼物を生産し続ける。それらは波佐見の「くわらんか手」であり、波佐見の製造圏に属していることを物落る。また、皿山でありながら皿類はほとんど焼いていない。しかし十九世紀には上物の林類や細工物が増加し、主に大阪方面に移出されていたらしい。
窯は共同(寄り合い)窯で個人が1~2室を持っており、年数回の窯炊きをしていた。
また、窯の一部は平戸藩の御用窯でもあった。

